【徹底検証】サーフグリップのグローブは保温性は果たしてどれくらいあるのか?!レビュー動画
商品名:3mmネオプレンウェットスーツグローブスイミングサーフグローブサーフィンファイブフィンガーS
ショップ:Terapower
詳細:説明:プレミアム3mm / 0.12インチネオプレンレディースメンズダイビンググローブ-防水.暖かく.滑り止め.伸縮性手のひらと熱素材の凹凸粒子設計により.摩擦を効果的に高め.水中を暖かく保ちます強度と耐久性のための接着剤とブラインドステッチ.および長期使用のためのUV保護表面は.クラゲ.鋭い岩など
「サーフィン サーフグローブ」でどんなものがあるか見てみる > サーフィン サーフグローブ
サーフィン サーフグローブ関連NEWS
期待を遥かに超えた、冬のおすすめサーフィンアイテム6選! WAVAL
シェイパーランキングを面白くするための舞台裏
PHOTO: © Brian Bielmann
2022年に導入され、2023年シーズンから正式に開始したサーフボードのシェイパーランキング『Vissla CT Shaper Rankings』
このランキングは、F1のコンストラクターズ・チャンピオンシップ(ドライバー個人のランキングとは別の車両製造者を対象としたタイトル)に似た仕組みで、シェイパーたちを称えることを目的としている。
しかし、正直なところ、盛り上がっているとは言い難い状況だ。
特にCTが開催されない日本では、「メイヘム」「パイゼル」「シャープアイ」「DHD」「JS」「メリック」といったブランド名のサーフボードは目にする機会が多く、実際に乗ったことがある人も少なくないだろうが、シェイパーたちの背景やキャリアについて詳しく知っているサーファーは多くないだろう。
そこでStabが2025年シーズン開幕戦に先駆けて行った主要シェイパーたちのインタビューを通じてその背景や人柄を掘り下げてみる。
彼らのキャリアやパーソナリティを知ることで、シェイパーランキングに興味を持つ人が一人でも増えて欲しい。
金塊を掘り当てたジョン・パイゼル
昨年、3度目のワールドタイトルを獲得したジョン・ジョンを子供の頃からサポートしているジョン・パイゼル。
彼は現在ノースショア在住だが、実はカリフォルニアのサンタバーバラで育ち、サーファーとしても優秀だった。
シェイパーを始めたのはノースショアに移住した1992年、23歳の頃で師匠はパンチョ・サリヴァンなどのボードを削るジェフ・ブッシュマンだった。
ジェフ・ブッシュマンの教育はスパルタで、シェイピングマシーンを使う前に1000本以上のボードをハンドシェイプで削らせた。
それが全ての技術を学ぶのに価値のある経験だったと話すが、まだその頃のジョン・パイゼルは売れていなく、初めて削ったメジャーサーファーのボードはノア・ジョンソンだった。
ジョン・パイゼルの大きな転機は、ジョン・ジョンの母親アレックス・フローレンスと出会ったことだった。
当時、ジョン・ジョンは5歳位で、4’6のボードを原価に近い200ドルほどで削ったのが始まりだった。
ジョン・パイゼルもアレックス・フローレンスもまだお金がなかった時代。
ジョン・ジョンはすぐに周りが注目するようなサーファーとなり、余裕がないながらも無償でサーフボードを提供するようになった。
それはジョン・ジョンの才能を見込んでのことで、後に成功に結び付いたのは言うまでもない。
ジョン・ジョンは史上最年少の13歳でトリプルクラウンにワイルドカードとして出場。
すぐにCT入りして2012年のブラジル戦で優勝。その時のボードは今でも工場にあるそうだ。
ジョン・ジョンの成功はイコールでジョン・パイゼルの成功でもあり、自分のシェイプマシーンを購入するほどの規模になった。
師匠のジェフ・ブッシュマンは、「君は手作業でシェイプしている最後の世代の一員になるだろう。これからハンドシェイプすることはない。コンピュータでシェイプするだけだ」と話していたそうだ。
ジョン・ジョンは2016年、2017年と2年連続でワールドタイトルを獲得して2024年に区切りとなる3度目を手に入れた。
ジョン・ジョンとの長年に渡り築かれた信頼と協力の結果により、シェイパーとして成功したジョン・パイゼルだが、「良い生活はしているけど、ディック・ブリューワーみたいに死ぬまでただシェイプするだけさ」と引退は考えていないようだ。
奇抜なフィッシュで成功したマット・バイオロス
2024年のランキングトップとなったLOSTのシェイパー、マット・バイオロスはジョン・パイゼルと同年代。
1969年にカリフォルニアで生まれた。
17歳でダナポイントにある友人のガレージでシェイプを始め、当時働いていたダナポイントハーバーの造船所からサーフボードの工場に転職。
1987年8月にハービー・フレッチャーのサーフショップの裏にある工場に移ってから本格的に彼のシェイプ人生が始まった。
ハービー・フレッチャー、マイク・ヒンソン、ティミー・パターソンからシェイプの技術を学び、徐々に顧客を増やしていった。
90年代初頭の大物だったクリスチャン・フレッチャーやマット・アーチボルトとは同年代で、ネイザン・フレッチャーがマット・バイオロスのボードに乗った最初の大物だった。
当時15歳だったネイザンの写真がサーフィン雑誌に掲載され、その後に現在WSLのMCを務めるストライダー・ヴァシレフスキや、ドッグタウンのジェイ・アダムスなどと連んでいた。
マット・バイオロスの転機はトム・カレン、クリス・ワード、コリー・ロペスなどが出演したサーフムービー『5’5 19 ¼』だった。
当時としては短過ぎると思えるツインフィッシュを自由自在に乗るサーファーが注目を集め、一気に依頼が10倍にも増えた。
1997年にはCTのトップ10に彼が削るサーフボードを乗った選手がランクイン。
トップライダーだったシェーン・ベッシェンはマット・バイオロスのハンドシェイプのボードに乗り、サニー・ガルシアを倒してCT初優勝を決めた。
その後、シェイプマシーンを導入したマット・バイオロスはLOSTのブランドを拡大してメイソン・ホー、コロヘ・アンディーノ、タジ・バロー。
そして、カリッサ・ムーアに出会い、確固たる地位を築いた。
ミック・ファニングとの出会いが全てを変えたダレン・ハンドリー
ジョン・パイゼル、マット・バイオロスより少し年上の61歳のダレン・ハンドリーはオージーで奮闘しているDHDのシェイパー。
シェイパーになったきっかけは、目指していたプロサーファーを挫折して母親に仕事を見つけなさいと怒られて飛び込んだパイプドリームのサーフボード工場だった。
床掃除から始めた仕事は、フィン制作(当時フィン会社はなかった)、サンディング、グラッシングと覚え、製造プロセスを数年で学ぶことになる。
世界一競争が激しいクーランガッタにいたダレン・ハンドリーは、名高いキラ・ボードライダーズのメンバーでもあった。
11年の下積みの後、独立した後はジェイ・フィリップを始めとしたローカルのボードを削り、約1年半後にキラ・ボードライダーズのメンバーだったミック・ファニングと契約した。
当時、ミックは12歳だった。
その関係はジョン・パイゼルとジョン・ジョン、マルシオ・ゾウビ(シャープアイ)とフィリッペ ・トレド、アルメリックとケリー・スレーターのようで、一緒に限界を引き上げて成長していった。
2007年にミックが初のワールドタイトルを獲得した年は年間で80〜100本のボードを削ったと話している。
その中でもスナッパーロックスの大会の開催2日前に突如もう1本欲しいと言われ、7分で削ったボードがマジックボードになったという逸話もある。
以後、ミックは3度のワールドタイトルをダレン・ハンドリーが削るサーフボードで手に入れ、世界中にDHDの名を轟かせた。
また、前人未到の8度のワールドタイトルを獲得したステファニー・ギルモアもダレン・ハンドリーが削るボードで成功した一人だが、細部にこだわるミックよりも「昨日、ミックがデュランバーで乗っていたボードと同じものが欲しい」とオーダーするほど直感的だ。
日本での出稼ぎ
今回紹介したジョン・パイゼル、マット・バイオロス、ダレン・ハンドリーの3人だが、売れない時代は日本に出稼ぎに来ていた。
それだけ日本のマーケットは大きく、例えばジョン・パイゼルは夏に波がなくなるノースショアを離れ、日本で150本のボードを2週間で削り、指先を血だらけにしながら現金を手に入れていた。
マット・バイオロスは90年代に毎年来日(マットは南アフリカにもジョーディ・スミスの父の案内で出稼ぎに行っていた)していたし、ダレン・ハンドリーは5日間で130本ものボードを日本で削っていたそうだ。
そんな彼らだが、マシンシェイプが発達した現在は各国のライセンスでも稼いでいる。
ちなみに若いシェイパーが入りにくいCTだが、アルメリックの息子、ブリット・メリックはブランドを終わらせないために試行錯誤して継続を成功させている。
また、マット・バイオロス、ダレン・ハンドリーの息子も同じ道を歩み始めているそうだ。
What Does It Actually Take To Become A World Title Winning Shaper?
https://stabmag.com/premium/what-does-it-actually-take-to-become-a-world-title-winning-shaper/
(空海)