サーフィン バケツ – 体が #サーフボード #サーフィン #ボード不要 #新競技?

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体が #サーフボード #サーフィン #ボード不要 #新競技?




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ショップ:イエローマーケットサーフィン

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サーフィン バケツ関連NEWS
巨大なイカに“襲撃”されたサーファー – ニコニコニュース(GoogleNewsより)
巨大なイカに“襲撃”されたサーファー  ニコニコニュース

日本のレジェンドサーファーであるジョージ藤沢氏が冬を諦めないウエットスーツ素材AGT210を実証する

日本プロサーフィン連盟公認のプロロングボーダーで、日本のレジェンドサーファーの一人である藤澤譲二氏(ジョージ藤沢)。


15歳でハワイへ渡米。ハワイでサーフィンを覚え、そして世界的なレジェンドサーファーであるランディ・ラリックと運命的な出会いをする。

 

George & Randy

 

ランディとハワイやアメリカ西海岸で、サーフィンが産業としても大きく成長する60年代後半~70年代前半を共に過ごし、サーフィンの素晴らしさを肌で習得。
 
そして、そのサーフィンの素晴らしさを伝えようと1975年、日本に帰国して、湘南・茅ケ崎でサーフショップ「フリュードパワーサーフクラフト」をオープン。

 

 

妻の加代さんと二人三脚でショップを盛り上げてきた
当時のサーフショップ「フリュードパワーサーフクラフト」

 

1978年に発足したJPSA(日本プロサーフィン連盟)のプロ一期生(A級認定プロ6名の1人)となり、サーフショップを運営しながら、日本におけるサーフィンの健全な普及に尽力。茅ケ崎市とホノルル市の姉妹都市契約への道筋を縁の下で支えた。

 
そんな藤沢氏に日本のサーフィンマーケットの創成期から、現在に至る変遷、そして50年愛し続けてきた茅ヶ崎について語ってもらった。

 

撮影:佐原健司

 

1997年にマリン企画から出版されたロングボード専門誌「ON THE BOARD」ではスーパーバイザーとして創刊に携わった

George Fujisawa 2010年茅ヶ崎

 

 

SURFMEDIA(SM):来年で50周年になるそうですが、ショップを茅ヶ崎にオープンさせた当時は、もうすでにサーフショップはあったりしていたんですか?

 

FUJISAWA(GF):ゴッデスやドミンゴとかはあったね。75年だからショートボードばっかりだよ。店を始めて直ぐにJPSA(日本プロサーフィン連盟)のプロになった。

 

当時は海の近くの店は、ショップ毎にオリジナルのサーフボードを販売していて、それが主流だった。都内のショップはオリジナルに加えて、流行っている輸入ボードを売っていたと思う。

 

2〜30年前から海外からの並行輸入とかが行われるようになって、その後にサーフィンをやっていなくてもサーフショップが出来るような時代になっていったんだよね。

 

 

自分のところで売っているモノには100%ギャランティ(保証)がないとね。

 

 

 

ITじゃないけどネット商売と無店舗のスクールとか。日本だけじゃなくてハワイでもどこでもそうなんだけど、結構増えているよね。でも、それって責任がないじゃない。売りっぱなしのやりっぱなしはダメだよ。

 

自分のブランド持って、看板掲げてやる。自分のところで売っているモノには100%ギャランティ(保証)がないとね。自分のところは最初サーフバムでやって、それからフリュードパワーに変えたんだ。それからベアーを始めたんだよね。

 

 

1979年に公開されたハリウッドサーフィン映画「ビッグウェンズデー」の中で登場するサーフボードブランド「ベアーサーフボード」は、1986年に藤澤氏のハワイのソウルメイトであり、偉大なレジェンドサーファー&シェイパーのランディ・ラリックが甦らせ、藤澤氏が日本総代理店を務めることになり現在に至る。

 

 

 

ちょうど映画の舞台となっていた時代に自分はハワイにいて、映画で描かれたように徴兵を受けていたんだ。だからベアーをやったんだ。板がどうのこうのじゃなくて、映画と同じ時代を過ごして、ストーリーに共感したからベアーを始めたんだ。

 

 

現在プロを引退し、JPSAのコンテストディレクターやコーチとして活躍する田中樹プロの育ての親でもある藤沢氏は彼の引退パーティーでもスピーチ 2018年10月

 

 

SM:ジョージさんが50年サーフショップを続けられている茅ヶ崎ですが、プロサーファーも多く住んでいて、日本有数のサーフタウンですよね。

 

GF:昔から茅ヶ崎は上手いサーファーが集まっていたよね。最初にJPSAのプロを作った時に試合をやって、5戦やったのかな。

Aクラスでプロになったは6人だけだった。自分のほかに博道(添田博道氏)青田(青田琢二氏)抱井(抱井保徳氏)あと教彦くん(岡野教彦氏)、善家(善家誠氏)とかもいたね。

 

いつも、この辺でやっていたからね。当時は西浜が良かったから。白樺とかチサンとか。台風の時は鎌倉に行ったね。抱井とかも、みんな茅ヶ崎に居たから、後から傳次郎(佐藤傳次郎氏)、赤坂谷(赤坂谷正義氏)とかも居たしね。

 

SM:そんな多くのプロサーファーが育った茅ヶ崎ですが、最近は移住者も増えて、子供たちを育てようとする活動も盛んですよね。

 

GF:そう。子供達は知らない間にものすごく増えているね。幼稚園とかも増えたり小学校も新しくなったり人数がどんどん増えてる。

 

サーフィンしている人も多い。特に子供がね。小学校1年とか5歳6歳とか当たり前のようにやってるよ。ちっちゃい板乗って、ウエットもピッタリしたの着てやっている。

 

茅ヶ崎は昔から受け入れ態勢とか、細かいことは気にしないよね。当時この狭い中でショップが20件ぐらいあったんだ。スクールとかも増えた。いまは海でトラブルになったりとかはあまり見ないね。うるさく言う人もいない。

 

でも50年ショップをやっていて、海の中と海沿いの交通整理は大変だったよ。最近はないけど最初のうちはトラブルがたくさんあったね。

 

 

サーフィンだけでなく「茅ヶ崎の町づくり」にも尽力

 

 

SM:ハワイとの姉妹都市を締結する計画に携わり、子供達のためサーフィンスクールなど地域のための活動も多くされて来たんですよね。

 

街をサーフィンシティにするのは、なかなか大変だよ。

 

茅ヶ崎はサーフボード発祥の地とか、ウエットスーツ発祥の地とかやってる。

 

俺は10年前、ハワイと姉妹都市をやりたいって太郎(茅ヶ崎市議会議員 茅ヶ崎サーフィン連盟顧問の柾木太郎氏)とかから相談受けて、俺が世話になった人やランディ(ラリック)さんの伝手で、とんとん拍子で姉妹都市になった。それから毎年ハワイと茅ヶ崎の両方でアマチュアの育成のための大会をやっている。

 

自分がやって来たことが、後になって評価されるようになって、その時に動いていて良かったなって思っているよ。

 

小学校も20年やって(茅ヶ崎市立東海岸小学校の総合学習の授業でもボランティアとして指導)。自分の店でも1年に一度、子供サーフィンスクールを18年間ぐらいやって来たからね。

 

1年生から6年生限定だったけど多くの人が参加していた。東京から家族で参加する人もいるほどだった。ボランティアの人も手伝ってくれて、本当に大変だったけど子供たちの笑顔が見たかったから続けてこれたんだ。

 

 

スタートはロングボード。それは絶対に消せない。

 

 

 

SM:現在ショップはロングボードがメインなんですか?

 

GF:そうだね。それは俺が50年間、毎年ハワイと行ったり来たりしていて、ハワイでロングボードが流行っているのを見て、ハワイでロングボードが戻って来たと言うのを肌で感じて来たからなんだ。

 

ショートボードしかない時代もあったけど、ロングボードが無くなったわけじゃないから。ずっとハワイではみんなやっていたし、スタートはロングボード。それは絶対に消せない。ちょっと歴史とかを勉強すれば、大事なことは分かるはず。

 

 

SM:プロとして試合に出場し、第一線で活躍されていた当時は、色々なウエットメーカーのサポートを受けてこられたんですか?

 

GF:茅ヶ崎の場合はビクトリー※があって、日本のウエットスーツの発祥の地みたいな場所。ビクトリーから多くのウエットメーカーが巣立っていた。自分はそんなビクトリーでライダーをやっていたんだ。

 

※ビクトリーは、まだダイビング用スーツを着ていた日本サーフィンの草創期に、はじめてサーフィンに向けたウエットスーツを開発。日本のウエットスーツの礎を築いた。

 

SM:時代の流れの中で、日本のウエットスーツの進化を体感されて来たジョージさんだと思うんですが、今と比べると昔のウエットスーツはどんなものでしたか?

 

GF:そんなに悪くなかったと思うね。日本のウエットスーツはそれなりに縫製とかゴムが良かったから。それに自分はダイビングスーツを着てサーフィンをする時代ではなかったからね。サーフィン用のウエットだったからね。

 

 

ジョージさんにAGT210を体験していただく。

 

 

今回は、日本サーフィン創成期から、日本のウエットスーツの進化を体感されて来たジョージさんに、ミドルエイジが冬でも快適にサーフィンライフを続けられるように考えられたAGT210を体感してもらい、冬を諦めるサーファーが少しでも海に戻って来てくれればという思いで、ジョージさんにフルオーダーでスーツを作っていただきました。

 

関連記事:大人のための高品質なラグジュアリー・ウエットスーツという選択。分厚いウエットスーツはもういらない。

 

 

保温性、機動性を最も有効にするためにはカラダにフィットするスーツを着用することが大切
インタビュー当日にジョージさんを採寸させていただく
新素材を手にして笑顔が溢れるジョージさん

 

BEWET:さまざまなウエットメーカーのサポートを受けてこられたジョージさんですが、この素材を実際に手にして、どんな感想を持たれましたか?

 

GF:僕は昔から着にくいやつは着ない。タダでもいらないよ!みたいな感じだった。自分でお金出して他のものを買うよって主義だから。

自分がサーフィンをやってきて、65年ぐらい経って、着にくいウエットスーツを着ているっていうのは有り得ない話だから。でも、この生地は触っただけでも違いを感じるね。

 

 

BE:これは銀とチタンをコーティングしていて、銀は抗菌性、チタンは蓄熱と熱を反射する効果があります。カーテンの内側とか日傘の内側とかスキーウェアの内側にも利用されています。

それを加工してウエット生地にすることによって、従来よりも1ミリ生地を薄くすることができるようになっています。

 

GF:生地を薄くすればするほど、伸びが良くなって、逆に裏のジャージがついてこないとかいうのはないんですか?

 

BE:ジャージの伸びは今年特に改良しました。起毛密度が通常販売している起毛よりも目付の量が多く毛足が長いんで評判がいいです。1本1本の繊維の中空糸の口もでかいので、それだけでも蓄熱作用があるんですが、チタンのコーティングで体温を逃さないんです。

 

 

 

さらにサンコーの担当者がAGT210のついて語った。

スポンジとジャージの間に蒸着させているので、この効果は半永久的です。通常の起毛よりも保温力が高い商品なので5mm x 4mmで着るよりも、3mm x 2.5mmにして機動性を重視して着ていただきたい。

 

サーフィン用のウエットスーツが出来た時から今に至るまで、ウエットスーツのメーカーの一番いい商品をジョージさんは着用されていたはず。50年という長い期間でそれを感じられて来たジョージさんに使用してもらい、AGT210の実力を検証してください。」

 

 

現在サーフマーケットは40〜60代がメインユーザーとなり、体力や年齢との折り合いで冬を諦めるサーファーが増えるだろう。

 

サンコーはいま日本が持つ暖かい技術と、柔らかい素材、脱ぎ着のしやすいファスナーの工夫、楽に肩が脱げるインナーコード、2ラウンド目に冷たくない速乾性ジャージなどを用いて、ミドルエイジでも冬を諦めないスーツを作り続けていく。

 

次回は実際に冬の海でジョージさんにAGT210のウエットスーツを使用して頂き、その使用感をお聞きする。AGT210の実力はいかに。

 

 

取材協力:
フリュードパワーサーフクラフト

〒253-0054 神奈川県茅ケ崎市東海岸南1-21-1
営業時間 9:00~19:00
駐車場 3台
定休日 火曜日(盛夏季無休)
TEL:0467-86-6944
FAX: 0467-86-2888
https://fluidpower.jp/

引用元
日本のレジェンドサーファーであるジョージ藤沢氏が冬を諦めないウエットスーツ素材AGT210を実証する

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