ラッシュガード o'neil –

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サーフカルチャーの礎、ウォルター・ホフマン逝く

via Hoffman California Fabrics instagram

ダナポイントマフィアと呼ばれたビッグウェイブのパイオニアは、ビジネスでも大成功を収めていた


ハワイノースショアーの開拓者の一人で、サーフィン業界の重鎮でもあるウォルター・ホフマンが今年7月9日に逝去した。享年は92才だった。ちなみにウォルター・ホフマンは、クリスチャンとネイサン・フレッチャーの祖父にあたる。

ウォルター・ホフマンは、1931年カリフォルニアのグレンデールで生まれた。父親は1924年に繊維業を立ち上げたルーブ・ホフマン。兄は共同事業者でビッグウェイバーでもあるフィリッピー(フィリップ)・ホフマン(2010年没)。

少年時代のウォルターは家族とともに夏を過ごしたラグナビーチで海のアクティビティを体験して夢中になる。その一つにサーフィンがあった。当時はサーフィン黎明期の40年代でサーフボードは木製のレッドウッド、ウェットスーツはまだ存在していなかった。

成長しながらカリフォルニアの海でさまざまな経験や知識を身につけたウォルターは、ラグナビーチのライフガードとして働くようになる。しかし、朝鮮戦争の勃発でウォルターは徴兵され、奇しくもハワイへと送られた。除隊後はパールハーバーで再びライフガードに赴くことになった。

ハワイにビッグウェイブがあることを誰も知らなかった

そのハワイでウォルターはジョージ・ダウニングたちと出会い、夏はワイキキで、冬はマカハでビッグウェイブに挑むようになった。その頃に撮影した8mmフィルムをウォルターはカリフォルニアの兄のところへ送る。当時は、ハワイのビッグウェイブの存在が明らかにされていない時代だった。15フィートのマカハをサーフするウォルターの映像を見た兄フィリッピーと友人のバジー・トレントは驚き、すぐにハワイへと旅立ち、3人はマカハのビーチでキャンプ生活を送るようになる。

やがて彼らはアメリカ軍が建てたかまぼこ型の小屋に移り、ビッグウェイブ用のサーフボードの開発を進める。彼らが開発したサーフボードは、すでにホットカールと呼ばれたレッドウッド製で強いヴィーがボトムに入ったフィンレスがベースだった。ウォルターはサーフボード作りにも才能を発揮した(ホットカールサーフボードを発明したのはジョン・ケリー)。

「当時はシェイパーなんて存在しなかったし、サーフショップすら無かった。だからみんな自分でサーフボードを作ったものさ、それができない奴はウォルターみたいな人に頼んだんだよ」ウォルターの友人でサーフィンヘリテージ&カルチャーセンターのデイック・メッツは語る。

当時のメンバーにはホフマン兄弟の他に、バジー・トレント、ジョージ・ダウニング、ウェイリー・フロイセス、ウッディ・ブラウン他がいた。やがて彼らはマカハから新たなサーフポイントを探すために北へと足を伸ばす。これがノースショアーの開拓の第一歩となる。

1959年、ホフマン兄弟はハワイでは生計が立てられないと悟ってカリフォルニアへ戻り父親の仕事を引き継いでホフマン・カリフォルニア・ファブリックスを創業する。彼らはハワイで見たアロハシャツに着想を得て、南国をイメージする派手なプリントの布地を商品化する。サーフウェアのブームにも乗って彼らの会社は大きな成長を果たす。オーシャンパシフィック、オニール、クイックシルバー、ビラボン、ガッチャ、パタゴニアそしてラルフローレンなどサーフウェアを扱うほとんどの会社はホフマンたちと取引があった。

サーフカルチャーを作ったダナポイントマフィアたち

ちなみに、ダナポイントのビーチフロントに居を構えたホフマン家には、後にさまざまな分野で成功するサーファーたちが集うようになる。例えばポリウレタンのサーフボードフォームを開発したホビー・アルターとゴードン・クラーク、映画エンドレスサマーの監督ブルース・ブラウン、サーファー誌のジョン・シバーソンそしてサーファーズジャーナル誌のスティーブ・ペズマンなどだ。カリフォルニアがサーフカルチャー発祥の地と言われる理由がここにある。彼らが意図してサーフカルチャーというジャンルを作ったわけではないが、ホフマン家が磁場となり、サーフィンに情熱を燃やす才能に溢れる人々を集めてサーフィンの礎となったのは揺るぎない事実だ。だが、穿った見方では彼らはサーフィン業界に大きな影響力を持つことになった。それ故に「ダナポイントマフィア」と呼ばれた。

サーフィンに情熱を燃やしたウォルターであったがコンテストには興味を向けることはなかった。だが、タンデムサーフィンで1954年のマカハインターナショナルで優勝している。(相方はジョアン・ジョーンズ)。1967年のデューク・カハナモク・インビテーショナルではジャッジを努めている。

ホフマン家には華々しい系譜がある。ホフマン兄弟がノースショアーのパイオニアとなったことは言うに及ばず。ウォルターの継娘であるジョイス・ホフマンは1965年と1966年の世界チャンピオン。次女のデビは、ロングボードのレジェンドでアストロデッキを発明したハービー・フレッチャーと結婚し、彼らの息子がエアリアルの先駆者クリスチャン・フレッチャーと、ビッグウェイバーでバイクレーサーのネイサン・フレッチャーである。

ウォルターは1995年にSIMAのウォーターマンアチーブメントアワードを受賞。またホフマン兄弟は2006年にハンティントンビーチのサーフィンウォークオブフェイムに選ばれている。

「ウォルターほど恵まれたサーフィンライフを生きた人は他にいない。彼は最高の時代にサーファーとなって、いつの時代もそれを最大限に享受した」と長年の友人でもあるジェリー・ロペスは語った。「彼はきっと、良き波、良き友人、そして良き時代を思い出して微笑んでいるだろうね」

故人の冥福を祈りたい。

(李リョウ)

参考文献:
https://www.ocregister.com/
https://www.eos.surf/
https://surfingwalkoffame.com/

引用元
サーフカルチャーの礎、ウォルター・ホフマン逝く

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